遍照寺の歴史

遍照寺の歴史

古い歴史を持つ金剛山遍照寺

遍照寺は、山形県長井市横町14番8号にあって、真言宗豊山派長谷寺を本寺とする寺である。寺の起源については伝えられたものはなく、室町時代の永享8年(1436)に、宥日僧正によって中興されたものである。それで遍照寺では、宥日を中興第一代とし、それ以来、今の住職生方隆聖で50世になる。

『遍照寺史』より引用

1050年 平安時代後期

安倍貞任の娘卯の花姫が宮村の卯の花館に住み、前九年の役が始まると源頼義・義家の攻撃にそなえて兵馬の訓練をするとともに、遍照寺の僧妙澄阿闍梨に調練の成就と戦勝祈願をさせたという。

『ながい百話』より引用

1189年 鎌倉時代初め

源頼朝が1189年に平泉藤原泰衡を攻め、平泉がことごとく兵火で焼かれたとき、中尊寺の僧祥原が難をさけて遍照寺に来て住職となったと言い伝えられている。

『ながい百話』より引用

1380年~1600年まで

(遍照寺の位置する)置賜郡は、天授6年(1380)伊達宗遠[8代]が攻め取って以来、貞山政宗[17代独眼竜]に至るまで10代220年にわたって、伊達氏の領地であった。その間、遍照寺はその祈願所として保護を受けていた。伊達氏が、遍照寺に対して門前の占有権を認めていた。

『遍照寺史』より引用

1450年頃 室町時代の初め

長い歴史の中で、遍照寺も幾度となく盛衰をたどったが、室町時代の初め1450年頃、能書家であり火伏せの祈祷の名人と言われた宥日上人が寺の再興につとめ、真言宗をひろめ、遍照寺中興の祖と崇められている。現在でも旧長井町地区では全寺院9寺中6寺が真言宗の寺である。遍照寺は古くから「僧侶が集まって学問をする所」として、談林の寺格を持っていた寺で、玄関に掲げられた「常法談」の扁額はそのことを示すものである。

『ながい百話』より引用

1630年 江戸時代の初め

室町の中頃から戦乱が続き、世の中が安定せず寺も一時衰えたが、江戸時代の初め寛永17年(1630)に権大僧都日瑜が中院流の法流を復活して寺の再興につとめ今日に至っている。

『ながい百話』より引用

遍照寺の本堂と山門

遍照寺の本堂・庫裡は昔は萱葺きの重厚な建物であったが、昭和7年4月2日夜、近所の火事から全焼している。焼けた古い本堂庫裡は何時建てられたのかはっきりしないが、
・明暦4年(1658)下長井四十四郷の勧進で屋根の全面葺替
・延享2年(1745)柱根朽損・柱曲り・屋根大破のため大修理
という記録があるので、おそらく室町初期に建替えられたものであろう。
上杉藩主の下長井検分の時は、いつも昼時の休憩所となった。

遍照寺正面の山門は昭和7年の火災の時も焼けずに残っている。この山門は明治8年に新町水上の宮大工堀越源次郎が再建したのもので、8寸角の欅の6本の柱に支えられた大きくて厚みのある屋根が、どっしりとした重厚な感じを与えている。特に屋根の反りは非常に見事で、斜横から見たときが一番美しい。
細かく見ていくと、柱の頂上で桁を支えている組物も、肘木(舟形の木)が十字に組まれ、窓から外に出た肘木の先にもう1つ肘木をあげた「出組」という複雑精巧なつくりで、この門の美しさを一層引き立てている。西置賜では最も美しい山門かもしれない。

『ながい百話』より引用

※住所表示、旧字等、一部を現在のものに修正しています。